第六章 牌位
劉三祭は麻子を店の中へ通したが、すぐには気を許さなかった。
古びた椅子を一つ引き寄せ、袖で埃を払ってから座るように勧める。けれど麻子の視線が再び供物台に吸い寄せられると、劉は思わずと言うように付け足した。
「見るだけにしとけよ。勝手に触るな。こいつは、ただの飾りじゃねえ」
麻子は頷いた。
自分から触るつもりはなかった。あの供物台には、近づくほど妙な重みがあった。誰かに見せるための品ではない。客を喜ばせるために置かれたものでもない。鉄炉と鎚と火箸に囲まれた粗い店の中で、そこだけが違う時間を守っているようだった。
劉三祭は低い腰掛けを持ってきて麻子の向かいに座り、煙草に火をつけた。
煙草を吸う手つきがやけに板についていた。太い指、厚い胼胝、爪の間に残る煤の色。青島へ来てから見てきた、働く者の手だと麻子は思った。畑を耕す手、荷を担ぐ手、車を押す手。劉三祭の手もその一つだ。ただ、もっと重く、もっと熱を帯びている。ついさっきまで鉄を打っていた手だった。
劉は煙を吐きながら言った。
「さっき、日本で同じものを見たって言ったな」
「はい」
「どこの家だ」
「松平家です」
「おまえの家か」
麻子は少し考えてから答えた。
「私の家と近い家です」
劉三祭はすぐには返事をしなかった。煙管を靴底に軽く打ちつけ、まだ疑いの残る目で麻子を見る。
「なら、訊けよ。俺にわかることなんざ多くねえが」
麻子は供物台の名と、誰を祀るものなのか、なぜ店の真ん中に単独で置かれているのかを順に尋ねた。劉三祭は最初こそ大したことではないように話した。じいさんの代からここにあること。親父が守ってきて、今は自分が預かっていること。決まりは幾つかだけで、北を背にして南へ向けて置くこと、他の牌位と混ぜないこと、祭の日には必ず香を上げること。それくらいだと。
「どうしてですか」
「知らねえ」
劉は口の端で笑いかけ、すぐにやめた。
「親父は、知りすぎてもろくなことはねえって言う。子供の頃、邪魔だと思って奥へ動かそうとしたら、本気で怒鳴られたことがある。あの時は、木っ端一つみてえな顔してるくせに、ずいぶん大事なもんなんだなと思ったよ」
そう言いながらも、劉の目は供物台のほうへ向いていた。笑い話のように口にしながら、心のどこかではずっと引っかかっていたのだと、麻子にはわかった。
「清明と冬至になると、親父はここだけ自分で掃いて、香炉の灰まで替える。俺が煙草の灰を近くへ落としただけで小言だ。鉄の屑なら踏んでも平気なのにな」
鍛冶屋の中で、そこだけ別の規矩が働いている。麻子にはそう見えた。
麻子はさらに、刻まれた文字の意味を訊いた。
劉は首を振った。自分は字が得意ではない、祭文らしいということしか知らない、先祖から伝わったもので、変えるなと言われているだけだ。そこまで言ってから、劉はふと目を上げた。
「おまえ、読めるのか」
麻子は答えなかった。椅子を立って供物台の前へ進み、もう一度その一行を見た。
灰が薄く積もっている。麻子は袂から小さな布を出し、劉を見た。
「少しだけ、払ってもいいですか」
劉は眉をひそめた。ためらったが、布が文字のまわりをそっとなぞるだけだと分かると、渋々頷いた。
布が木肌をかすめるたび、暗く沈んでいた年輪が浮かび上がる。額の字は古く、乾き切った木の奥へ深く食い込んでいた。祭文というより、誰かが意志ごと打ち込んだような彫りだった。
劉は許したあとも座り直さず、麻子の肩越しにじっと額を見ていた。壊してはならないものを、他人の手がいま初めて触れている。そんな緊張が、そのまま背中に出ていた。
昭光流易,已届清明。奉孝光德,倍觉怆然。——刘氏祭
麻子は今度、文字だけではなく、刃の入り方と木地の色を見た。各々の画の深さ、線の終わり、彫り口の古び方。見るほどに、胸の内が冷え、同時にどこかが鋭く冴えていく。
やがて振り返り、劉三祭に言った。
「日本で見たものは、前の八字まではまったく同じでした。違っていたのは次の四字だけです。こちらは『奉孝光德』、向こうは『仲慎光德』でした。落款も、こちらは『刘氏祭』、向こうは『松平氏祭』でした」
今度は、劉三祭は笑わなかった。
さっきまでだらりと座っていた体が、ゆっくり起き上がるように真っ直ぐになる。目も、一度に強くなった。
「本当に、そう見たのか」
「見ました」
「どうしてそんなに覚えてる」
麻子は少しだけ黙った。
あれは昨日今日見たものではない。最初に見たのはずっと前、まだ自分が子供だった頃だ。しかも今になって、その時にはうまく意味の取れなかった細部まで、急に結びつき始めていた。
麻子は供物台を見たまま、低く言った。
「もう一つ、あります」
「何だ」
「松平の二字だけ……あとから彫り直されたように見えたんです」
その一言で、劉三祭の顔つきが変わった。
言い返そうとして口を開きかけたが、すぐには何も出てこない。供物台へ二歩近づき、手を伸ばしかけて、途中で止める。
「そんなはずはねえ」
そう言いながら、劉自身、その声に力がないことを隠せなかった。
麻子は畳みかけなかった。
「子供の頃は、はっきり意味がわかっていたわけではありません。ただ、そこだけ刃の入り方が違って見えたんです。まわりを削って、埋めて、あとから刻んだように」
夏の客間。酒の入った大人の低い声。肩に置かれた母の手。その時は繋がらなかったものが、今になってようやく一本の線になろうとしているのを、麻子は感じていた。
劉はしばらく黙り込み、やがて掠れた声で言った。
「……親父に聞く」
その前に一度だけ、劉は「本当かよ」とほとんど独り言のように呟いた。問い返している相手は麻子ではなく、自分自身のようだった。見慣れていたはずのものが、見慣れていただけで何も見ていなかったのかもしれない。その気づきが、顔に出ていた。
それが、自分にも向けた言葉であるようだった。
そして麻子の記憶もまた、一気にもっと遠い日へ引き戻された。