第八章 劉父を訪ねて
劉三祭が煙管を置いてから、鍛冶屋の中はしばらくしんとした。
外では相変わらず朝の音がしている。野菜を売る声、子供の足音、鶏の鳴き声、鍋の縁に杓子が当たる軽い音。けれどそれらは薄い壁一枚隔てた遠い場所の出来事のようで、店の中には、劉三祭と麻子と、その間にある供物台だけが残ったようだった。
「今、おまえは言ったな」
劉三祭がゆっくり口を開く。
「松平の二字は、あとから彫ったみてえだって」
「子供の頃から、そう見えていました。今見て、ますますそう思いました」
「そんなことを俺に言って、何がしたい」
ぶしつけな訊き方だった。
麻子はそれでも視線を外さなかった。
ここで「歴史が知りたいだけです」と言えば、たぶん終わる。もうこの話は古物の由来だけでは済まない。二つの家の間に伸びる、きれいとは言い難い一本の線に触れてしまっている。麻子は回り道をしなかった。
「松平家にあるあの供物台が、どうやって松平家へ来たのか知りたいんです」
そう言ってから、さらに言い切った。
「もし最後に、松平家が誰かの名を削って自分の名に替えたのだとわかったら、それでも知りたい。削られたのが誰の名で、どうしてそうしたのかまで」
劉三祭は麻子を見た。
「おまえは日本人だ」
「わかっています」
「日本人が今ここで何をしてるかも、わかってるのか」
麻子の指先が袖の中でわずかに強張った。
「わかっています」
「それでも調べるのか」
「だからこそです」
麻子の声は高くなかった。けれど引かなかった。
「私は中国へ来た時、ただ学びたかっただけでした。けれど今は、それだけでは足りないと思っています。好きだという気持ちでは、手についたものは消えません。もし松平家が見苦しいことをしたなら、少なくとも私は、知らないふりをしたくありません」
劉三祭はすぐには答えなかった。
いつもの気安い笑いは顔にない。明るく見えることの多いその目が、初めて本気で麻子を量っていた。火から上げたばかりの鉄を見て、それが鍛えるに足るものか、打てば砕けるだけのものかを見分けるように。
やがて低く言った。
「そんな話、うちの親父が聞いて、すぐ信じるとは思えねえ」
「信じなくてもかまいません」
麻子は言った。
「会って話すだけでいいんです。追い返されるなら、それでも」
劉三祭はその場でしばらく動かなかった。
実のところ、もう自分も巻き込まれているとわかっていた。これまでは供物台をただの家の決まりとしてやり過ごしていられた。祭の日に香を上げる、勝手に動かさない、それで済んでいた。けれど「日本にもまったく同じものがある」と聞いた瞬間に、もう元には戻れない。おまけに「松平の二字はあとから彫られたように見える」ときた。
もしそれが本当なら、松平家と劉家は、ただ海を隔てて同じ品を持っているだけではない。
間に、別の何かがある。
そしてその何かを知っているのは、たぶん自分の父だ。
劉三祭はふいに、子供の頃のことを思い出した。清明の香が燃え切ったあと、父が珍しく真顔で言ったのだ。
「わしが死ぬ前になったら、これが何なのか教えてやる」
あれからずっと、考えないようにしてきた。知りたくないわけではなかった。知ったら、今のままではいられなくなる気がしたのだ。
だがもう、知らぬふりはできなかった。
「親父は、よそ者を好かねえ」劉は言った。「日本人ならなおさらだ。いきなり連れていっても、戸を閉めるだけかもしれねえ」
そこで劉は言葉を切った。まだ続きがありそうなのに、飲み込んだのがわかった。戦の年々の中で積もったものがあるのだろうと、麻子にも想像がついた。だからこそ、自分が叩こうとしているのは、ただの家の戸ではないと分かった。
「それでも構いません」
麻子は答えた。
「私は、私の側に刃が向くとしても、見ないふりをしたくありません」
劉三祭は戸口へ行き、外を一度見た。子供が泥をいじり、物売りが天秤棒を担いで通っていく。何も変わらない朝の景色だった。だが店の内側だけは、もう元のままではなかった。
「明日、学校が終わってから来い」
ようやく腹を決めた声だった。
「俺が先に話だけ通してみる。明日になって怖くなったなら来なくていい。けど、本当に聞く気があるなら来い。聞いたあとで、自分の家の中でさえ今まで通りにはいられなくなるかもしれねえ。それでもってんなら」
麻子は訊いた。
「あなたはどうするんですか」
劉三祭は苦く笑った。
「俺も知りてえよ。うちが何を守ってきたのか。何十年も目の前に置いておいて、俺自身がいちばん訊かずに済ませてきたんだからな」
麻子は小さく頷いた。
「では、明日。放課後に」
鍛冶屋を出ると、路地にはもう少し高くなった日が差していた。
子供はまだ走り、物売りはまだ声を上げている。何も変わっていないように見える。けれど麻子にはわかった。もう、何かは始まっている。
帰り道の途中、麻子は一度立ち止まり、手帳の端に短く書きつけた。
「もし刃が先に松平家へ向くなら、それも受ける」
その夜、麻子はほとんど眠れなかった。
夕食の席では、いつものように配給の話や値段の話が続いた。ある女は、中国人は表面上は従っていても腹の底では何を考えているかわからないと笑い、別の女は、まだ締め方が足りないのだと言った。麻子は同じ卓に座っていながら、その会話の輪の外に立っているような気がした。茶碗を持つ自分の手まで、少し遠かった。
目を閉じるたびに、二つの供物台が浮かんだ。青島の一つ、日本の一つ。劉氏祭と松平氏祭。そして、あとから彫り直されたように見えた二字。
翌日、授業のあいだじゅう、麻子の心は教室にはなかった。
教科書の行は追える。板書もできる。けれど文字が胸に落ちてこない。生徒の返事を聞き返したのに、何を答えたのか耳に残っていなかった。指についた白い粉を見て、麻子はふと、削られた字の縁に残るだろう白い木肌を思った。
終鈴が鳴った瞬間、麻子は鞄を取った。
もう引き返すつもりはなかった。