第九章 劉氏の血脈

その日の午前、祖母は教壇に立っていながら、ほとんど何も教えていなかった。

口は教科書の文章を追っていたが、心はまるで別の場所にあった。黒板に書く文字が少し歪んでいることにも気づかない。鍛冶屋の奥に据えられていたあの供物台、そしてそこに刻まれていた十六文字が、頭の中を離れなかった。

最後の授業の終鈴が鳴るや否や、祖母は昼食も取らずに学校を飛び出した。

青島の旧市街を駆ける。石畳の路地、低い灰色の塀、干物の匂い、道端で昼寝をしている野良猫。いつもなら足を止めて眺めたくなるようなものが、今日は何一つ目に入らなかった。今日を逃せば、この謎は一生胸の奥に刺さったままになる。そんな確信だけが祖母を急がせていた。

鍛冶屋の前には、すでに劉が立っていた。

いつものような気軽な笑顔はない。肩には古びた風呂敷を掛け、炉の火は落とし、鉄床の上の熱もすっかり引いていた。祖母が息を切らして駆けつけると、劉は汗に濡れた額をひと目見て、低く言った。

「本当に来たんだな」

「来ると言いましたから」

劉は少しのあいだ祖母を見つめた。思いつきで来たのではないか、それとも本気なのか、量っているような目だった。やがて背を向ける。

「行こう。ただ、先に言っておく。親父は気難しい。きついことを言われても、怒らないでくれ」

村までの道は長く、荒れていた。

二人はロバ車を雇い、城外へ出た。砂利と轍にまみれた道を進むたび、車輪がきしみ、体が跳ねた。祖母は痛みに顔色を失いながらも、弱音をひとつも吐かなかった。劉は途中で何度か「戻るなら今だ」と言いかけ、結局、口をつぐんだ。この娘は、今日はもう引き返さない。そう分かったからだ。

しばらく沈黙が続いたあと、村が見え始めたころに、劉が不意に口を開いた。

「ひとつ、はっきりさせておきたい」

祖母が顔を向ける。

「あんたを連れて行くのは、信じたからじゃない。俺だって知りたいんだ。どうして俺の家のものと同じものが、日本のあんたの家にあるのか」

祖母は少し黙ってから言った。

「私も同じです」

その返事を聞いて、劉は初めてまともに祖母を見た。もう愛想はなかった。警戒だけが顔に残っていた。

「親父をからかうつもりなら、許さない」

「からかうために、こんなところまで来ません」

祖母の声は静かだったが、揺らがなかった。

やがてロバ車が止まり、二人は土塀の低い家々の間を抜けて、劉の父が暮らす家に着いた。

庭には鶏がいて、豚舎には黒い豚が寝そべっている。風が吹くたび厠の臭気が流れてきた。祖母は思わず鼻をひそめたが、何も言わなかった。ここは訪問先というより、何かを長く隠してきた場所に見えた。

劉の父はオンドルの上に座っていた。

戸口に祖母の姿を認めた最初の一瞬、老人の顔はほころんだ。息子がとうとう嫁を連れてきたのだと思ったのだろう。だが劉が「日本から来た方です」と口にした途端、その笑みは音もなく消えた。

部屋の空気が変わった。

老人は祖母を座らせもせず、茶も勧めなかった。ただ細い目でじっと見つめる。その視線は荒くはないが、硬かった。古い木材の奥に打ち込まれた釘のように。

「日本人が、うちのものに何の用だ」

祖母は視線を逸らさなかった。

「私の家にも、ほとんど同じものがあるからです。今日ここで聞かなければ、この先ずっと気になり続けると思いました」

老人の顔色は変わらない。

「家の名は」

「松平です」

その二文字が部屋に落ちると、温度がひとつ下がったように感じられた。

「父さん、まず話を聞いてやってくれ」

劉が口を挟んだが、老人は祖母から目を離さない。

「聞いている。だが、この娘が何を求めて来たのか、先に知らねばならん」

祖母は、この問いに曖昧に答えたら扉は閉じると悟った。

息をひとつ吸い、率直に言った。

「私は松平家が潔白だと言いに来たのではありません。松平家と劉家がどういう関係なのかは、私にも分かりません。ただ、松平家にあるあれは、ただの古道具ではありません。刻まれた文字のところに、不自然な削りと彫り直しの跡があります。元は別の文字だったはずです。だからこそ、私はここへ来ました」

老人の眼差しが初めて動いた。

「見抜いたのか」

「はい」

劉も父と祖母を見比べていた。先ほどまで残っていた半信半疑の色が、そこから消えた。

「父さん、嘘じゃない。店の供物台と、あっちの家のものは本当によく似てた」

老人はしばらく黙り、それから低く言った。

「あの文字を、今でも覚えているか」

「覚えています」

「書け」

祖母は皺だらけの紙と短い鉛筆を受け取った。あの十六文字は何年も胸の中で反芻してきたものだった。一画一画、ためらいなく書く。

昭光流易,已届清明。仲慎光德,倍觉怆然。

紙が老人の手に渡った瞬間、すべてが変わった。

呼吸が止まり、背がわずかに伸びる。濁っていた眼が急に澄み、紙を持つ指が小さく震えた。弱って寝ていた老農ではなく、長く封じてきたものの前に立つ別の人間が、そこに現れていた。

「父さん……」

劉が声をかけても、老人は応えない。ただ「仲慎」の二文字を見つめ続けたあと、ゆっくり顔を上げて息子を見た。

「三祭。お前は、なぜ自分にその名が付いたか知っているか」

劉は呆けたように首を振った。

「知らない」

「知らなくて当然だ。わし自身、いつお前に背負わせるべきか、ずっと決められずにいた」

「何を?」

「劉家のものをだ」

その言葉に、劉は反射的に半歩下がった。

「父さん、やめてくれ。俺はただの鍛冶屋だ。店だって楽じゃない。そんなもの、背負えるわけがない」

「だから今まで言わなかった」老人は一語ずつ押すように言った。「だが、思う思わぬとは別に、来るものは来る」

劉の声が尖った。

「この人が来たからって、いきなり俺に全部押しつけるのか? それにこの人は外の人間だ。しかも日本人だぞ。聞いたことをどこへ持って行くか、どうして分かる」

部屋がぴんと張った。

祖母の顔がわずかに白くなる。だが、反論しなかった。自分でも同じ立場なら、そう思うと分かっていたからだ。

老人が口を開く。

「その通りだ。本来なら、この娘は聞くべきではない」

祖母はすぐに言った。

「でしたら、私は外へ出ます」

「出ても遅い」

老人は紙を折り、掌で押さえた。

「字を書いた時点で、戸は開いた。開いた戸は、なかったことにはできん」

それから息子を見た。その目には相談の余地がなかった。

「三祭。今ここで出て行くなら、二度と戻るな。だが座って聞けば、もう知らなかった頃には戻れん」

劉の喉仏が上下する。

帰りたい。鍛冶屋へ戻りたい。火を起こし、鉄を打ち、酒を飲み、眠る。それだけで済む日々へ戻りたい。だが、いまこの部屋から逃げたところで、胸の中の何かは決して元へは戻らない――そのことも、もう分かっていた。

やがて劉はゆっくりと座った。

「……話してくれ」

老人は短く目を閉じ、ようやく決意を固めたように口を開いた。

「我が家が祀ってきたのは、ただの先祖ではない。お前の名の『三祭』も、適当に付けたものではない」

一拍置いて、静かに言う。

「その人の名は、劉理。字は奉孝だ」