第十章 劉奉孝
「劉理……?」
祖母は思わずその名を繰り返した。
知っている名だった。だからこそ、老人の口からそれが出たことが、かえって現実味を失わせた。
劉の父は机の上の紙を指で叩いた。
「奉孝。見ただろう。この二字は飾りではない。名だ」
劉はしばらく口を開けたまま固まっていたが、やがて無理に笑った。短く乾いた笑いだった。
「待ってくれよ。うちは雨漏りのする家だぞ。そんな家に向かって、皇族の血筋だなんて言うのか」
「皇族?」老人は冷ややかに言った。「お前はそれを栄えだと思うのか」
「じゃなきゃ何だ。そんな大層な家なら、どうして俺たちは字もろくに習えず、鍛冶屋を守って生きてるんだ。どうして祭台をあんなふうに隠してきたんだ」
言葉が荒くなり、部屋に跳ねた。
老人は怒鳴り返さなかった。ただ長く息子を見つめてから、低く言った。
「ようやく肝心なところを問うたな。いいか三祭、これは誉れではない。だから隠れ、だから装い、だから代々、普通の者として生きてきたのだ」
劉の顔から色が引く。
「あの祭台を売れば、家を直すどころか店をいくつも持てる。だが祖先は、飢えても手放すなと伝えてきた。守っているのは青銅ではない。命だ」
祖母の胸が冷えた。
もし劉家の供物台が本当に三国の時代から続くものなら、松平家のあれは「たまたま手に入れた古物」ではあり得ない。その家に渡るまでに、もっと長く、もっと濁った経路があったはずだ。
自分が追っているのは、ただの歴史の謎ではないのかもしれない。
松平家が口にしないできた過去そのものなのではないか。
「史書における劉理の記述は少ない」老人は続けた。「劉備の三男、梁王、のち安平王、延熙七年に病没。若くして死んだ。書かれているのはその程度だ。だが我が家に伝わる話は違う」
祖母は身を乗り出した。
「何が違うのですか」
「死んだ年だ」
さらりと言ったその一言が、井戸に落ちた小石のように、深い波紋を広げた。
「どういう意味だ」劉が問う。
「正史は、劉理が紀元二百四十四年に死んだと書く。だが家書では違う。実際に世を去ったのは、それより十五年か十六年あとだ」
祖母の心臓が跳ねた。
家系の誇張では済まない。もしそれが真実なら、どこかの時点で、誰かが歴史を折っている。
「なぜです」祖母は問うた。「生きていたのなら、なぜ死んだことにされたのですか」
老人はしばらく黙ってから、ようやく言った。
「死んだことにしなければ、生きられなかったからだ」
劉が険しい顔になる。
「そんな話、どこから……」
「わしの父から聞いた。父はさらにその父から聞いた。父が死ぬ前に、家書を開いて一頁ずつ読んで聞かせたのだ。信じぬなら、このあと自分の目で見ろ」
劉はまだ食い下がった。
「代々伝わる話なんて、都合よく膨らむものだろう」
「そうだ」老人はあっさり頷いた。「だからこそ今まで黙っていた。わし自身、お前には偽物だと思って生きてほしかった。偽物なら、人は穏やかに暮らせる。だが本物だと知ったら、もう鉄槌ひとつで生きてはいけん」
その言葉で、劉はついに黙り込んだ。
祖母は別の重さを感じていた。劉は愚鈍なのではない。ただ、誰かがずっと、彼を単純な生活の側に留めようとしてきたのだ。見せれば壊れるものがあると知っていたから。
「劉理は、なぜ史書であれほど軽いのでしょう」
祖母の問いに、老人は答えた。
「争わなかったからだ。劉備が死に、劉禅が立ち、劉永が疎まれていく中で、劉理は前へ出なかった。王として静かに座していた。目立たぬ者には、表に出せぬ仕事が回る」
「何の仕事だ」
老人はすぐには答えず、炕の奥を指した。
「お前はずっと知りたがっていたな。なぜあの祭台がそれほど大事なのか。なぜ我が家が何代もそれに縛られてきたのか」
劉は唾を飲んだ。
「あれはただの鍵だ。その先に、別のものがある」
「家書ですか」
「家書もそのひとつだ。だが話を始めるのに、劉理の死から入るわけにはいかん。もっと前へ遡らねばならぬ」
「どこまで?」
老人は息子を見据えた。
「赤壁だ」
劉は眉をしかめた。
「また話が飛んだな。劉理と赤壁に何の関係がある」
「我が家が背負っているのは、『劉備の子孫』という響きの良い札ではない」老人は静かに言った。「赤壁のあとに残った負い目と約だ」
祖母の胸がひやりとした。
劉は苦々しく笑った。
「劉理だの赤壁だの、祭台だの。話が大きすぎて、どこまでが真なのか分からん」
「怖いなら、今出て行け」
老人の声は低く、揺れなかった。
劉は奥歯を噛み、動かなかった。
しばらくして老人は炕の奥へ目をやり、言った。
「口だけでは済まん。わしも、目で見たから信じざるを得なかった」
それから息子に告げる。
「戸を、きっちり閉めろ」