第十二章 赤壁

「曹軍を、病ませる……?」

劉はほとんど叫ぶように言った。

その顔には、初めてはっきりした嫌悪が浮かんでいた。

「それは戦じゃない。人を殺すやり方だ」

老人はすぐには答えず、竹簡に目を落としたまま言った。

「だからこそ、評書のように面白がって聞くなと最初に言ったのだ」

劉はなおも収まらなかった。

「槍で突いて死ぬなら、まだ戦だ。斬られて死ぬなら、それも戦だ。だが、自分が何で倒れているのかも知らずに、営の中で熱に浮かされて死んでいくなんて……そんなものまで策と呼ぶのか」

その言葉には、祖先の物語を聞かされた誇らしさではなく、初めて自分の血の先にあるものを嫌悪した若者の生々しい震えがあった。

祖母の指先も無意識に固くなる。

自分が知っていた三国は、智謀と義と裏切りの時代だった。だがもし諸葛亮が赤壁の前に曹軍へ病を広げていたのだとしたら、それはただの名場面では済まない。勝利の意味そのものが変わってしまう。

老人は読み進めた。

曹操が南下し、劉表が病死し、劉琮が城を開ける。劉備は敗れて南へ退き、民を連れて逃げる。その窮地を繋いだのが魯粛だった。ここまでは祖母の知る通りである。

「そこまでは、です」

祖母が言うと、老人は頷いた。

「表向きはな。表では魯粛が奔走し、孫劉が手を結んだ。だが内側では、孫権にも魯粛にも勝ち筋は見えておらん。十万と五十万だ。真正面からぶつかればどうなるか、誰もが分かっていた」

だから諸葛亮が最初に示したのは、布陣でも火計でもなかった。

「曹軍は、陣前で敗れる必要がない」

そう言ったのだと、家書は記す。

「どうやって、それが戯言でないと示したのです」

祖母の問いに、老人は短く答えた。

「十日だ。諸葛亮は孫権と魯粛に、十日の賭けを持ちかけた」

江上で対峙を維持できるなら、十日で曹営を乱す。魯粛が方法を問うと、諸葛亮は四字だけ返した。

「自ら病むようにする」

劉は眉をひそめた。

「孫権が信じたのか」

「信じなかった。だが信じぬわけにもいかなかった」

老人のその言い方に、祖母は一種の冷たさを感じた。戦の最中に人が選ぶのは、納得できる策ではなく、まだ捨てたくない可能性なのだ。

十日後、密偵が戻る。

曹営では高熱、嘔吐、痙攣、衰弱が広がり、日に日に臥せる兵が増えていた。諸葛亮は大言ではなく、現実に曹軍の内側を崩し始めていた。

「つまり」劉が掠れた声で言う。「赤壁は、始まる前にもう半分終わっていたのか」

「そういうことになる」

祖母は別のことを問うた。

「孫権と魯粛は、どうやったのか聞かなかったのですか」

老人は乾いた息を漏らす。

「聞いたとも。諸葛亮の力が本物であればあるほど、二人は別の意味で恐れた。今日それを曹操に向ける男が、明日には東呉に向けぬ保証はない」

孫権は、諸葛亮を「同盟の使者」としてではなく、「まだ味方である危険」として見始める。

魯粛はより大きな秤を持っていた。いま重要なのは、諸葛亮を怖れることではない。曹操を越えられるかどうかだ。孫劉がここで割れれば、最初に滅ぶのは東呉である。

「だから、手を結びながら疑った」

祖母の呟きに、老人は頷いた。

「そうだ。同盟とは信頼ではない。必要の形だ」

しばらく部屋は静かだった。破れた窓紙が風に鳴る音だけが聞こえる。祖母には、一千七百年前の大帳とこの狭い農家の一室とが、見えない細い裂け目で繋がっているように思えた。時代が違っても、人が恐れるものは同じだ。敗北、死、強すぎる味方、見えない明日。

老人はさらに読む。

十日が過ぎ、病は曹営に根を張った。そこで初めて、孫権は火計を本気で動かす決断を下す。周瑜と黄蓋が整えていた策が、ようやく現実になる。

だが最後に残る問題があった。

風である。

冬の長江に吹くのは北風。火攻めを仕掛ければ、焼けるのは曹営ではなく自軍の船だ。ここが崩れれば、それまでの十日も、諸葛亮の策も、すべてが無に帰す。

「だから東風を借る」

劉が言うと、老人は首を横に振った。

「お前が知っているのは芝居の場面だ。家書にあるのは、風が来る前に、孫権の心に殺意が芽生えていたという話だ」

祖母ははっとした。

「諸葛亮が、風向きまで変えられるかもしれないと思ったから……」

「そうだ。孫権がその時に怖れていたのは、もはや曹操ではない。諸葛亮だ」

帳中で諸葛亮が「今夜、東南風が吹く」と告げた時、孫権の手は剣の柄に触れていた、と家書は記す。

「殺そうとしたのですか」

祖母の問いに、老人は静かに答えた。

「その気にはなった。しかも一度ではない」

祖母の背を冷たいものが走った。

火計の前夜、東呉が最も恐れていたのは、敵の将ではなく味方の軍師だったのだ。

老人は竹簡をひとつ繰る。

「その夜、諸葛亮は趙雲に命じて、ひそかにあるものを運ばせた。曹軍を病ませたものも、東南風を呼んだものも、同じ源から来ていた」

劉が身を乗り出す。

「何だ」

老人は二人の顔を見てから、ゆっくりと言った。

「龍亀の銅鼎だ」