第十四章 東風を借る

家書がその夜を細かく記しているのは、戦いが派手だったからではない。

東南風が吹かなければ、それまで積み上げてきたすべてが江辺で腐ると、誰もが知っていたからだ。

孫権は、夜半を待つ前に密かに魯粛を呼んだ。

「諸葛亮のあとを追え。風が起き、役目を果たしたなら、そのまま生かして帰すな」

祖母はその一節を聞いても驚かなかった。むしろ自然だと感じた。諸葛亮が測りがたく見えれば見えるほど、孫権にとっては処分すべき危険物に変わっていく。

「魯粛は従ったのですね」

「表向きはな」

老人の返答は短かった。

魯粛にとっても諸葛亮は危うい。だが江の向こうには曹操がいる。より近く、より大きな脅威である。赤壁を越えるまでは、諸葛亮を斬ることは東呉自身の喉を掻き切るに等しかった。

子の刻が近づいたころ、趙雲は少数の兵を率いて営の後ろの山麓へ向かった。

馬の蹄には布が巻かれ、声は殺され、松明も最小限だった。家書には、その一行は夜の林を流れる影の列のようであったとある。だが、どれほど慎重に運ぼうとも、鼎を地に据えた時には、重い鈍音が闇に落ちた。長いあいだ動かされることのなかったものが、ようやく居場所を変えた音だった。

「どれほどの大きさだったのです」

祖母の問いに、老人は答えた。

「一丈あまり」

劉が息を呑む。

「そんなものを、夜のうちに……」

「だから少人数では足りん。運ぶだけでも秘密だ」

家書に記される鼎は、深い青銅色をしていた。方形の身に古い銘文と文様がびっしりと刻まれ、底には伏した亀がいる。だがその首は亀ではなく、上を向いた龍の頭であった。口をわずかに開き、長い髭を後ろへ流し、喉の奥にまだ吐かれていない何かを抱えているような姿だった。

祖母が低く呟く。

「龍亀……」

「そうだ。おそらくお前たち両家の供物台は、これを模して作られた」

祖母は一瞬、息を忘れた。真正の器の姿を、まるで目の前に見るように思えたからだ。表面に触れたい、銘文を読みたい、中に何が入っているのか確かめたい――そんな衝動が胸を打つ。

だが家書は、その核心を多く語らない。

鼎が開かれ、中から一つのものが取り出された。ただそれだけだ。

「何だったんだ」

劉が問う。

「はっきりとは書いていない。石だ」

「石?」

劉は眉をしかめる。

「石ひとつで、人を病ませ、風まで変えるのか」

「だから神物と呼ばれた」

だが祖母は、その時はっきり首を横に振った。

「神ではないと思います」

父子が祖母を見る。

祖母は竹簡から目を離さずに言った。

「ここに書かれている現象が本当なら、そこには必ず実在の何かがあるはずです。まだ私たちが正体を知らないだけで」

老人はその言葉に答えなかった。ただ先を読む。

趙雲らが退き、諸葛亮だけが鼎の前に残る。魯粛と配下の兵は遠くから様子を窺うが、近づくことはできない。

やがて、異変が起きた。

最初は霧だった。

江辺に立つありふれた薄霧ではない。地の底から押し上げられるような、重く濃い白だ。山の裾で巨大な蓋が持ち上げられ、中から冷たい息が一層ずつ溢れ出してくるような霧だった。

そのあと、風が止んだ。

終夜吹いていた北風が、喉元を掴まれたように、不意に途切れる。帆も旗も、まだ惰性で小さく震えているだけになる。

「それから東南風ですね」

祖母が言う。

老人は頷いた。

「いきなり天地が裏返ったのではない。先に静まり、次に反転した」

家書には、その静寂が最も恐ろしかったとある。何十万の人と船がいるはずなのに、江そのものが息を止めたようだった。魯粛は林の陰で冷汗を流し、その時初めて、孫権が諸葛亮を恐れた理由を骨で理解した。

ほどなく、東南からの風が起きる。

初めは火の揺れを変えるほどの細い流れ。だがすぐに帆を張らせ、旗を翻させ、江の波を反対側へ走らせるほどにはっきりした風になる。

黄蓋の火船が放たれたのは、その瞬間だった。

東南風をまともに受けた船団は矢のように走る。曹操の側は、冬夜に火が北岸へ来るはずがないと思い込んでいたうえ、前線は病で弱っている。火が見えた時には、もはや防ぐかどうかではなく、逃げ切れるかどうかの段階に入っていた。

祖母の胸には、別の像が浮かんでいた。

風は天から借りられたのではない。

何かが、局地的に空と地の条件を変えたのだ。

老人は原理を語らない。家書が知らないからだ。

語るのは結果だけである。

火は船を呑み、船は陣を呑み、病に侵された曹軍は持ちこたえられずに崩れた。孫劉連合軍はその上を押し切った。

「では、孫権は結局、諸葛亮を殺さなかったのですね」

劉が言う。

「その夜はな。だが殺意そのものが消えたわけではない」

祖母はようやく理解した。

家書が孫権、魯粛、諸葛亮の駆け引きを細く書き残しているのは、赤壁の本質が勝敗だけではないからだ。この夜、龍亀の銅鼎は人目に晒された。そこから先は、誰がそれを知り、誰が欲し、誰が恐れるかという別の争いが始まる。

老人は竹簡を次へ送った。

「曹操はこの夜から北へ逃げた。途中、劉備が配した幾つもの伏兵に行く手を阻まれ、最後に華容道へ追い込まれる」

「そこで待っていたのが関羽」

一拍置いて、さらに言う。

「そして関羽が曹操に告げたのは、単なる恩義の言葉ではなかった」