第二十章 銘文
その夜、老人は部屋でいちばん明るい油灯を、炕の卓の真ん中へ寄せた。
竹簡、古い冊子、供物台、そして祖母が昼のうちに描き写した摺図が、順に並べられていく。灯は低く絞られていたからこそ、木と紙の上の傷はかえってくっきり浮かび上がった。劉三祭は見ているうちに苛立ってきたらしく、座ったかと思えばすぐ立ち、戸口の外で冷たい空気を二口ほど吸って戻ってきた。肩には夜気が乗っていた。
「まだ見るのか」
ついに彼は言った。
「もう大体は分かっただろう。鼎の中のものは人を病ませ、風まで乱す。まともな代物じゃない。親父は人に見つけられないよう守ってきた。麻子は、自分の家が何か負ってるかもしれないから追ってきた。だが、実際に見つけたところでどうする。掘り出して、また誰かを害するのか」
言い方は荒かったが、部屋の誰もすぐには否定しなかった。
いちばん避けられないところを突いていたからだ。
祖母は供物台の摺図を見下ろしたまま、しばらくしてから言った。
「私が宝を掘り起こしたいだけなら、ここまで来ません」
劉三祭は鼻で笑った。
「じゃあ何のためだ」
祖母は顔を上げた。
「松平の家にあるあれが、もともと何だったのかを知るためです」
劉三祭の表情が一瞬止まる。
その時になって、老人がゆっくり口を開いた。
「その言い方は間違っておらん。祭台がただの祭台なら、両家がここまで引きずる理由はない」
そう言って、胼胝だらけの手を自家の供物台へ置く。
「お前たちは、字を字として見ている。だが、これは初めから字だけじゃない」
祖母は思わず一歩近づいた。
老人は勿体ぶらず、摺図を寄こせと言った。十六文字のほか、龍の首、亀の背、四脚、台座の刻線まで写し取った図である。老人はその端を二か所、指先で押さえた。
「ここだ。もう一つ、ここも見ろ。字は十六だが、刃は十六で終わっておらん。余っているこの刻みは、補修の痕じゃない。向きを見分けるための印だ」
祖母が身を寄せる。息が止まりかけた。
それまで彼女は、縁が削られ、補われたことばかりに目を奪われていた。けれど老人に指されて初めて分かった。目立たぬ浅い刻みは無秩序に散っているのではない。四脚、龍首、鼎耳に呼応する場所へきちんと配されている。供物台全体を方位盤のように見立てれば、本文の十六字と浅い刻みは一つの仕組みとして繋がる。
「文字は、回して読まねばならん」
老人は言った。
「器のかたちと合わせてな。字だけを写せば祭文になる。器を正しい向きに置いて初めて、字の内側にある路が出る」
劉三祭が眉をひそめた。
「路?」
「門を見分ける路だ」
その四字が落ちた瞬間、灯の火までわずかに揺らいだ気がした。
祖母の手が無意識に固くなる。彼女はこれまで、銘文とは祭辞か紀年、せいぜい家の中だけで伝わる暗号だろうと思っていた。だがもし本当に「門を見分ける路」なのだとしたら、供物台は記念の品ではない。いつか再び使われることを前提に残された鍵だ。
「劉家は、ずっとそれを知っていたのですか」
「半分だけな」
老人は答えた。
「全部を知っていた者は、とっくに土の下だ。今に残ったのは、守るべき規矩と、簡単には解けぬ言い方だけだ。規矩は、祭台を失うな。言い方は、字を読み尽くすな」
劉三祭はいよいよ苛立った。
「そこまで途切れてるなら、何のために守る」
「途切れているからこそだ」
老人は息子を見据えた。
「この半分まで失えば、後の者には野心だけが残る。戒めは残らん」
灯心が小さく弾けた。
祖母はその時、思い切ってもう一歩踏み込んだ。
「では、『昭光流易』とは何ですか」
老人は彼女を見たが、先ほどまでのように一律には退けなかった。
「文として読めば、それらしく聞こえる。だが、ばらして読め。『昭』は照らす、『光』は向きだ。『流易』は感傷じゃない。水路が変わることを言っている。下の句の『仲慎』も、人柄を褒めた言葉じゃない。時と順を見誤るな、という指図だ」
祖母の胸はますます重くなった。
綺麗な解釈ではない。むしろ無骨で、無理があるくらいだ。だが無理があるからこそ、本当に役に立つものを短い文へ押し込んだ跡に見えた。後世の附会ではなく、場所と順序と禁忌を、わずかな字数へ押し固めた読み方だ。
「つまり、祭文であると同時に、場所と開ける順の手掛かりでもある」
祖母が言う。
「そうだ」
老人は頷いた。
「ただ、後の代ほど後ろ半分を口にしなくなった。だから“祭”だけが表へ残った」
劉三祭の顔色は、もうかなり険しかった。
「じゃあ、松平の家にあるやつはどうなる。あれも同じ形なら、他所の人間にも路が読めるってことか」
老人の視線がゆっくり祖母へ落ちる。
「そこは、そちらの先祖に問うしかない。副えの座として持ったのか、ほかのつもりで持ったのか」
祖母の背に冷たいものが走った。
この言い方は遠回しだが、それでも十分だった。松平家にあるのが本当に副座なら、関わりはただの所蔵では済まない。この鍵の一部そのものへ触れている。さらに重いのは、松平の二字が刻まれる前に、そこへ何があったのか、もう誰にも分からないということだ。
劉三祭もその意味を飲み込んだらしかった。
祖母を見る目に、警戒だけでない嫌な重さが混じる。
「あんたがこの先を追うってのは、中国が好きだとか歴史が好きだとか、そういう綺麗な話じゃない。松平の家がどこまでこの線に手をかけたか、その深さを掘るってことだ」
部屋は静まり返った。
老人も、すぐには遮らない。
それでも祖母は退かなかった。
「そうです」
祖母ははっきり言った。
劉三祭の目がわずかに見開く。
「自分の見栄を守りたいだけなら、ここへは来ていません。劉家が守ってきたのは、もう一度使われないようにするためです。松平がもしこの線に触れていたのなら、松平こそ、自分だけ傍観者の顔をしていてはいけない」
重い言葉だった。けれど声は低く、揺れなかった。
やがて老人が手を供物台から離した。
「なら、よく聞け」
老人は言った。
「この十六字を、今後は詩のように覚えるな。祭文であり、道標でもある。埋めた場所を認める線でもあり、開ける時を告げる線でもある。ひとつ欠ければ路は足りず、ひとつ多ければ禍へ寄る」
そう言ってから、龍首の下にある、ほとんど見えない刻線を指で叩いた。
「本当に先へ行くなら、まず鼎を見つけることを考えるな。覚えておけ。探す者の中から“探す”だけが残った時、あれはすぐ禍のほうへ傾く」
祖母はその細い刻線を見つめ、卓の端を押さえる指先を白くした。
子供の頃、松平家の客間で見上げたあの供物台が、ただ古びて見栄えのする品ではなかったことが、そこで初めて完全に確かになったからだ。
あれは、最初から鍵だったのだ。