第三十一章 封痕

僕たちは、偽の石坡に長くは留まらなかった。

雨にふやけたコピーを劉硯秋が折り畳み、すぐに「逆読」で両側の材料を突き合わせ直す。順に読んでいた方位語をひっくり返し、副座の縁にある浅い刻みへ合わせ直すと、路はあっさり別の方角を指し始めた。江べりの目立つ斜面ではなく、もっと奥だ。古い河道と堤のあいだに取り残されたような低地。

翌朝、地元の人に聞いた廃堤の脇道を辿ってそこへ入った。人影はほとんどない。草は膝より高く、土には古い煉瓦や瓦の破片が混じっている。何日か前の雨で、低地の端が少しだけ崩れていなければ、ほかの荒地と見分けがつかなかったかもしれない。

けれど実際に崩れた断面の前へ立った瞬間、僕も劉硯秋も同時に足を止めた。

見えている層が、普通の土ではなかった。

灰色の石灰、その下に黒く締まった炭土、さらに意図して置いたとしか思えない丸い河原石。いちばん奥には、緑青に覆われた金属の縁がわずかに覗いている。厚みのある弧で、農具の欠片が偶然そう見えているという形ではない。

僕はしゃがみ込んだ。

劉硯秋もすぐ隣へ膝をついたが、土を掻こうとはしない。断面だけを、しばらく無言で見続ける。やがて彼女が低く言った。

「封層だ」

その言葉で、ようやく目に入ってくるものが増えた。灰の層と黒土のあいだには、白っぽくなった鉛泥の塊がいくつも押し込まれている。接合部の跡も残っていた。宝を埋めた層ではない。中のものが二度と外へ触れないように、何重にも押し戻した層だ。

それは、完全な銅鼎よりずっと本物らしく見えた。

壮観だからではない。

むしろ逆で、壮観でなかったからだ。

大仰な再現ではなく、抑え込みと警戒だけがそこにあった。

崩れ口の下のほうに、浅い石の溝が少し出ていた。僕は副座の摺図を広げて照らし合わせ、指先から血の気が引いた。溝の位置が、龍首と鼎耳の来るはずの方位とぴたり重なる。封じる時、対応する器をそこへ当てて向きを取った痕が、そのまま残ったようだった。

「ここで素人がこれ以上触る場所じゃない」

劉硯秋の言葉は、僕の中に湧いた考えとまったく同じだった。あと少し掘れば、露出した金属が鼎の胴かどうか分かるかもしれない。もっと奥に字があるかもしれない。絹も紙も残っているかもしれない。そういう欲は、確かに一瞬湧いた。

けれど、その次の瞬間には、祖母と劉硯秋の言葉が重なった。

これを、自分の英雄譚にするな。

僕は伸びかけた手を引っ込めた。

「文化財保護の担当を呼ぼう」

劉硯秋は僕を見て、ひとつだけ頷いた。

地元の文化財保護の担当と県の職員は、思っていたより早く来た。最初に来たのは若い職員が二人。そのあとで、年長の教師のような人が合流した。僕たちは両側の材料、偽の線へ誘導していたコピー、いま見えている層のことを順に伝えた。相手はその場で大仰なことを言わず、まずロープを張り、写真を撮り、方位と断面の記録を取り始めた。

年長の人が、偽の場所に落ちていたコピー用紙を手に取る。

二目ほど見てから、ふと訊いた。

「これ、あなたたちの持ち物じゃないですね」

僕は首を振った。

「やっぱりそうか。二、三日前、堤の見回りをしていた人が言ってたんです。外から来た古物商みたいな二人組が、偽の石坡のほうで勝手に掘っていたって。龍亀がどうとか、赤岸がどうとか口にしていたらしい。こっちが着いた時にはもう逃げていて、残っていたのは紙と道具の痕だけでした」

劉硯秋がちらと僕を見たが、何も言わなかった。

それで十分だった。別口の大物がいたわけではない。ただ、古い物の匂いを嗅ぎつけて、先に掘れそうなら掘ってしまおうとする人間が、いつの時代にもいるだけだ。

そのあいだに、年長の人は崩れた土の中から小さなものをつまみ上げていた。

薄い青銅の欠片だった。縁に細かな文様が残り、龍の鱗にも見える。火と土に磨かれて、もう息をしているのかどうか分からないくらい薄い。

別の若い職員は、灰の層の脇から半ば崩れた封泥を拾った。そっと割ると、中から極細の繊維が覗く。ほとんどほどけかけた古い絹だ。

僕はその場で、呼吸を浅くすることしかできなかった。

完全な鼎は出てこない。

伝説の話のように、巨大な青銅器がそのまま姿を見せるわけでもない。

あるのは封層、残片、鉛泥、絹の繊維、そしてここが何かを「厳重に押し返した場所」だという、どうしようもなく生々しい証拠だけだ。

けれど、それこそがこの話らしかった。

昼過ぎには、崩れ口のそばから、ほとんど朽ちた薄い陶筒まで出てきた。筒身は砕けていたが、中には黒ずんだ紙の切れ端と、さらに薄い絹片が守られている。現場で開くことはできない。最低限の保護だけして持ち帰るしかない。それでも、絹の端に見えた数文字のうち、僕には二字だけ読めた。

副座。

外証。

その二字から、しばらく目を離せなかった。

もう十分だった。

劉家の見証と、松平家の副座が、もともと一つの仕組みの中にあったこと。それから後の時代に、副座を「松平家の旧器」と書き換えていく層が、ただの誤解や風化ではなく、人の手によって重ねられたものであること。

それを知るには、もう十分すぎた。